なぜ自然栽培?
なぜ大手企業を定年前に卒業し、自然栽培の活動を始めたのか?
漢方薬に救われた過去
小児喘息と漢方薬
3才のとき弟が生まれ、母親に構ってもらえなくなり、泣き過ぎて泣き過ぎて小児喘息に。
小学生のころは喘息の発作が起きると肺が縮まってしまい、身体を起こしていないと呼吸が出来ず、苦しい一夜を幾度となく過ごしました。
翌日、近所の小児科に行って頓服をもらって飲むと、ようやく息が出来るように。
喘息になり肺が弱くなったせいか、良く風邪をひきました。
市販薬は飲むと具合が悪くなるので、いつも漢方薬を処方してもらい飲んでいたように思います。
漢方薬は早く飲めば効くことがわかりました。
長年悩まされた蓄膿症
小学生から高校2年まで重い蓄膿症で、頭はいつもどんより重く、ぼーっとする毎日でした。
鼻で呼吸できる日は極楽にいるようでしたが、10日に1日もあったかどうか。
大学受験を前に、高校2年生の夏休みに手術することを決め、その前半年間は蓄膿症に効く漢方錠剤を飲み続けました。
果たして症状はかなり改善されており、手術は随分と簡単なもので済みました。
喘息完治へのタイムリミット
大学2年の時、サークルの夏合宿で医学部の学生宿舎に泊まったのは運命だったのかもしれません。
布団が不衛生でハウスダスト、家ダニのフンを吸い込み、激しい喘息の発作が。
医学部の救急医の先生に見てもらい、「大学を卒業する22歳までに喘息を完治しないと、一生治らない慢性喘息になる」と言われました。
それから2種類の漢方薬を毎日飲み続けて2年、喘息は卒業前に完治。
まさに不幸中の幸い、その先生に会えたのは人生の別れ道でした。
猛烈に働いた平成初期
中国出張で「薬湯&足裏マッサージ」に出会う
平成の一桁年代は、まだ昭和を引きずっていました。
今では考えられないくらい猛烈に働くことができた面白い時代。
正月も三賀日くらいしか休まず、夢をもって仕事に没頭しました。
デジタル時計を企画、設計し、そのまま中国の工場へ出張して試作品を作って評価する。
そんなことを年に数サイクル行っていました。
中国では会社指定のホテルと会社をシャトルバスで往復する毎日の中で、足裏マッサージは安くて効く癒しでした。
花の香りがする薬湯に足を沈め、十分に温まってから足裏マッサージをしてもらう。
疲れが取れ、極楽気分でいつも眠ってしまいました。
2025年、松本薬草研究会で検討している銭湯用の薬湯の企画は、ここが原点だったのかもしれません。
農業との出会い
協生農法に出会う
50歳を過ぎ、人生の残りを意識し始めた時、これまで何も成し遂げていないことに虚しさを感じていました。
協生農法の講演会をなんらかのきっかけで知り、聞くために東京へ。
農業の歴史を聞いて驚きました。今まで当たり前だと思っていた慣行農法とは真逆の農法があり、自然の仕組みを理解し生き物たちとの協力関係を活かして人が食べる作物を作るとは画期的なことだと思いました。
誰も出来ていないけれど、私の究極の目標は「生命を科学したい」という言葉は今でも心に残っています。
協生農法を学びたくて、伊勢にある桜自然塾に4、5回通いましたが、私には商業的に実践することは難しく、別の方法を探すことにしました。
自然菜園安曇野校での衝撃
ネットで「無農薬」「無施肥」「不耕起」などのキーワードを入れて検索したところ、自然菜園スクール安曇野校を発見。
当時の理解は表面的だったので、協生農法と近い考えに共感し受講を申し込みました。
衝撃だったのは、自然菜園の野菜のすっきりとした美味しさと、私の常識がひっくり返る竹内さんの話の連続でした。
1年目は言われた通りに手を動かすだけでしたが、数十種類の家庭菜園を経験。
もっとしっかり理解したくて2年間通い、自然菜園のやり方とその背景となる考え方が腑に落ちるように。
さらに自然菜園スクール長野校に2年間通い、安曇野校で買った苗がどれほどの手間と情熱で作られたものかを知り、農作業で腰を痛めない体の使い方、限りある時間で畑の世話をどう効率良くするかなどを習いました。
大岡越前 小石川養生所 榊原伊織(医者)、薬草をゴリゴリするのがカッコいい
昭和の50年代でしょうか。
「大岡越前」という江戸を舞台にした時代劇が好きでした。
南町奉行 大岡越前には親友がおり、名を榊原伊織という小石川療養所の医者でした。
私には伊織がとてもカッコよく見え、大好きでした。
当時はもちろん薬草しかなく、薬草を薬研(やげん)でゴリゴリすりつぶして調合する姿がなんとも凄いと子供心に思えました。
2022年、伊那薬草研究会にて、本物の薬研を使って薬草茶を調合。
今に繋がるストーリーです。
退職から起業まで
居眠りでセンターライン飛び出し
会社を卒業する半年前、農を軸に起業したいけれど家族を安心させられる材料を揃えられず、悶々と眠れない日々が続いていました。
ある土曜日の夕方、伊那薬草研究会から松本への帰り道。
JR小野駅の手間の緩やかな左カーブでふっと意識が飛びました。
センターラインを超え対向車と接触。
その刹那、私と相手の人生は“最悪〜無事”の無限の可能性の幅の中で、お互いに最良の範囲内に収まりました。
最悪は2台の正面衝突。相手には小さなお子さん2人が乗っていましたが、お互い時速40km程度だったので無事では済まなかったと思います。
果たして、相手のお母さんが咄嗟にハンドルを切り、ドアミラー同士の接触でギリギリかわしてくれました。
誰も怪我せず、保険で修理費用を払うだけで済んだのは奇跡。
事故の際、地元の方が飛び散った部品の回収を手伝ってくださったのですが、そのカーブは不思議と事故が多く、数ヶ月前にも死亡事故が起きていたそうです。
あの時、私たちを救ってくれたのは小野神社の神様の計らいではないかと後になって思いました。
自然栽培ワインの古田学さんとの出会い
家族への最低限の責任、それは生活に迷惑をかけないこと。
そのためには、会社の早期退職加算金(60歳の退職金とは別に、早期退職して起業する人を会社が資金的に応援する大変ありがたい制度)の取得が必須。
逆に言えば、それが取れないようであれば定年まで勤めるしかありませんでした。
農業で起業と認められる条件の一つに、農地の担保があります。
早期退職加算金のピンチを救ったのが、自然栽培ワインの生産者である古田学さんとの出会い。
古田さんから畑3枚を借り、早期退職加算金を取得することができました。
口に出すと出会い、運を引き寄せるのは本当だった
2022年12月、安曇野自然菜園スクールの忘年会で行われたビジョンクエスト(近い将来どうなりたいかを書き出し、口に出す)では、「来年古田さんに会って自然栽培の畑を借りる」と発表。
この時まだまだ会ったこともない古田さんでしたが、なんとその通りになりました。
2023年1月、松本城近くのカフェ144の「ドリカム(夢が実現)」イベントに参加。
「自然菜園の素晴らしさと意義を伝えたいので、体験講座を開く」と発表したところ、2024年に実現できました。
運命を引き寄せたかったら口に出してみるのは有効です。
退職金をもらうときまでに軌道に乗せたい
作物が作れるようになるまで3年くらいはかかるようなことを聞きますが、自分に当てはめるとそれは退職金が出る60歳のとき。
その時には農業で収益が上がるようにしていたい。
収益は長く続けるために必要な要件だと思います。
屋号について
起業前に偶然、友人が営むカフェで「音(おん)で姓名判断」をする方に行き会い、思案中の屋号「里山の恵みサービス」をちょっとみてもらいました。
「人々を明るい方向に引き上げることを喜びとし、繁栄させる働きをし、天の叡智と繋がり人々の意識の媒介となる使命にある」との見立てをいただきました。
文字通り“過分”なお言葉でしたが、「人々を明るい方向に引き上げることを喜びとする」ことは元々起業の志とも一致していたので、背中を押された気がしました。